パラリンピックの歴史(第2部)

第2部

「パラリンピック」が生まれる

―1960~1980年代、スポーツとして大きく成長―

1960年、ローマ

そして歴史を大きく変えたのが1960年のローマです。

現在、IPCはこの大会を第1回パラリンピックと位置づけています。

当時の正式名称は、

第9回国際ストーク・マンデビル競技大会

でした。

しかし、ローマではオリンピックと同じ都市で、障がいのある選手たちによる大規模な国際競技大会が開催されました。

参加したのは、

21か国・319人

の選手。

競技は8競技でした。

1948年には16人だった選手が、12年後には319人。

大会は「リハビリのための競技」から、明らかに国際的なスポーツ大会へ変わっていました。


1964年、日本で開催

次の大きな転機は、私たち日本にやってきます。

1964年、東京。

東京1964パラリンピックには、

21か国から378人

の選手が参加し、9競技が行われました。

そして東京大会は、日本における障がい者スポーツの発展にも大きな意味を持つ大会となりました。

さらに、この大会では「Paralympic」という言葉が広く使われるようになりました。正式名称自体は当時まだストーク・マンデビル競技大会でしたが、「Paralympic」は東京大会を象徴する言葉として定着していきます。


1970年代、参加する人が増えていく

パラリンピックは、最初から現在のように幅広い障がいのある選手が参加していたわけではありません。

少しずつ、参加できる選手の範囲が広がっていきます。

たとえば1972年のハイデルベルク大会では921人が参加しましたが、当時はまだ切断や視覚障がいの選手がパラリンピックに正式参加できる段階ではありませんでした。

その後、さまざまな障がいのある選手が参加するようになり、パラスポーツはより多様なものになっていきます。


1976年、冬のパラリンピックも始まる

1976年にはスウェーデンのエーンシェルツビクで、第1回冬季パラリンピックが開催されました。

参加者は16か国198人。

競技はアルペンスキーとクロスカントリースキーの2競技でした。

夏だけではなく、冬のスポーツにも世界大会が広がったのです。


ボッチャがパラリンピックの正式競技になったのは、1984年のニューヨーク/ストーク・マンデビル大会です。

つまりボッチャもまた、パラリンピックの発展とともに、単なるレクリエーションではなく、世界で競う競技スポーツへと成長してきました。


1988年、ソウル

そして、パラリンピックの歴史を語るうえで非常に重要なのが、

1988年ソウル大会です。

ここで初めて、夏季パラリンピックがオリンピックと同じ都市・会場で開催される形が復活・定着しました。

ソウル大会には、

60か国・3,042人

のパラアスリートが参加し、18競技で争われました。

1948年の16人から、3,042人へ。

ここまで大会が成長しました。

IPCはソウル1988を**「近代パラリンピック時代の最初の大会」**と位置づけています。

そして、ボッチャの歴史にとっても大きな転換点となりました。

実はボッチャは、1984年のパラリンピックで初めて登場し、1988年ソウル大会で正式競技として実施されました。ソウル大会では、ボッチャに8か国・34人が参加し、2つの種目が行われました。 

当時のボッチャは現在とはクラス区分や競技形式が異なり、ソウル大会では、

  • 混合個人 BC1
  • 混合個人 BC2

の2種目で競われました。 

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